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2023年度洋画専攻絵画コースの3年生「コンペティション」という授業のご紹介をします。
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2000年代以降は「コンペティション・コンペ」「公募展」隆盛期といえるくらい多くの企画と機会が生まれている。 いわゆる美術作品の競技会的なものからアーティスト・イン・レジデンスといった地域に関わるプロジェクトまで、その対象となる内容と求められ る表現は多岐に渡る。以前のような単純に比較され評価されるという競争原理は薄れ、むしろ如何に適正な理解をしていけるかという歩み寄りや情 報の提示といった段階が重要視されるようになってきている。後先はともかくとして結果的には多様な表現がコンペで認められ、柔軟な芸術表現の 実践と社会へ紹介される機会になるなど、アーティストとしての社会参画の契機としても機能しているのではないだろうか。
そして、その段階的な評価システムは、キャリア形成と奨学生・奨学金のような助成制度としても、美大生にとってより身近なものになった。 この授業では、その『コンペティション』自体について考えると共に、作品制作や表現を行うものとして、これまで評価される側として一方向から 捉えていた視点を反転して、評価する側としても作品と表現に関わってもらいたい。
そこで前期の授業からの継続としてエスキースや自身の制作を進めながら、より現実的に既存の「コンペティション・コンペ」「公募展」のフォーマット・書式を基にした展示計画を立ててもらいます。
また、最終的な課題提出作品(作品のサイズや使用メディアは自由です。特に今回は表現行為の多様化も考慮する。)を教員が審査し各教員賞(各教員の講評コメント付き)を発表します。各学生にも他の学生の課題提出作品に対して票を投じてもらいたいと思います。
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制作したものは教員から賞を与えられ、授業内及び女子美祭でアトリエに展示を行いました。
受賞作品と、講評文を紹介いたします。


大森悟賞
石見 清乃「ふれる」

ミクストメディア
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作品テキスト

人と人の接触をテーマに制作しました。この「接触」は駅ですれ違うような、顔も名前も知らない人同士のそれを意味します。すれ違おうとして肩が触れた時、二人の間には緊張が走ります。しかし5分もすればきっと顔も忘れ、相手の存在は「他人」という大きな括りの中に溶けていきます。また自分も、他から見れば「他人」のうちの一人です。

この作品は鑑賞者の動きによって起きた風を受けて音が鳴ります。誰かが通り過ぎたことによって鳴った音を知覚し、鑑賞者は自分以外の存在を感じます。そしてその鑑賞者が鳴らした音を、また別の誰かが知覚します。それにより、鑑賞者達は自分以外の「他人」という存在を意識します。その後は、駅で肩が触れた人のように、その存在を意識しなくなっても構いません。ただその一瞬、接触したことで他人の存在を感じてほしいです。

私にとって「他人」とは、深く知らないが故の心地良さと一種の不快さを内包しながら、ゆるい糸で繋がっているような存在に感じます。皆さんもこの回りを歩いて、自分の立てた音、他人が立てた音を感じてみてください。

 

大森悟先生コメント

足元から微かに聞こえてくる音。地に落ちるように、吸い込まれて消えていくような音。

小さな透明アクリル板が細い糸で規則正しく並列するように吊るされ、それらの連なりが廊下のような細長い空間を作り出している。その空間を歩くと僅かな風が巻き起こり、アクリル板に風が作用して床に置かれた小さな箱からその不思議な音が聞こえてくる。その音を頼りに箱を覗き込むと糸の先にワッシャーが結び付けられていて、微かに揺れているのだ。

他愛もない物質の打ち鳴らす様子を見知って小さな音の正体が判明しても、鑑賞者の想像は止まらないのではないか。交響する音が波のように抑揚を生み出していて、その強弱が生き物の動きであることを直感的に感じ取っているからかもしれない。

作者の石見さんは、自身の作品コメントで「他人」の存在に対する意識について触れているが、私はどちらかというと「自分の立てた音」に対して「他人」の存在を感じとっていた。それは作品の中を通過して作り出した微風が若干遅れて揺れと音を誘発して、自分を追いかけてくるようなズレのなかにもう一人の自分、「他人」を想像していたからなのだ。「他人」のうちの一人の自分についてである。自分の影ほど明確に密着した存在と違って、音と共にどこかに吸い込まれていく誰か。どこにも帰属することのできない存在、そんな人々が向かうのは一体何処なのだろう、どんな世界なのだろう、そんなことを考えていると一つの映像が浮かんできた。牛腸茂雄の霧の中に子供たちが消えていくような写真だ。ビジュアルのイメージの投影で思い出したのでは決してなくて、おそらく、きっと、石見さんの言う「他人」についての感覚が牛腸の写真と重なる何かを抱えているような気がしたからなのだ。

「他者」と違って「他人」は、どちらかといえば忘れられる存在で、無数の関わりでもある。人に関心を抱きながら、接することの難しさを感じ取れる作品は、その作品自体も独特の距離感で全てを理解することは難しい。それが少しだけ長く作品を見つめる時間を作ってくれる。現代の私たちには、特に必要な時間なのではないか。

 

床の箱が家に見え始めて、さまざまな「他人」と風の吹く「まち」、つまり地平にめり込む家は私たちの暮らす日常に接続していることに気づきました。一軒一軒の家、家のなかに籠る音は家のなかに隠って沈んでいくようで、誰かの家もろとも消えていってしまうようで、戸惑うばかりの余韻でした。

一見、無機質な物で構成された作品が、情緒的で複雑な内面性と関わり始め、知らない誰かと束の間「接触」することができたようで、新鮮な体験でした。


 

福士朋子賞

境野 未来「強襲大学校」
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「みくとみらい39地区」
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「ハチクマ合戦」
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「可也沢々七七五景」
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キャンバスにアクリル
作品テキスト
あなたは神です。 今日も下界に目を向けると、ハチクマたちの世界はとても賑やかで、至る所で騒ぎが起き、また起きようとしています。
たった今何が起きた場面なのか、そして次の瞬間に何が起こるのか、ぜひ想像を膨らませてみてください。
それぞれの世界に【「★」が7個】と 【ハチクマに粉している人】が描かれています。 ぜひ探してみてくださいね。

福士朋子先生テキスト
宮崎駿監督の新作アニメーション『君たちはどう生きるか』には、なぜ擬人化された鳥のキャラクターが用いられたのか、なぜあれほどの鳥の大群が出てきたのか。気になっていたところに、また目の前に擬人化された鳥の群像図が現れた。
この鳥たちはハチクマだという。蜂を主食にしているらしく、蜂にまつわる要素も所々に見つけられてこの世界を読み解くヒントにも見えるのだが、それよりも千差万別な動きとシーンで埋め尽くされている画面に、なぜ鳥?なぜハチクマ?ということも忘れて様々な仕掛けを見つけて愉しむことになった。レトロな色調と戦時下を想像させる設定に、日々メディアから入ってくる世界情勢が投影されているのでは、とつい読み解きたくなるが、そんな鑑賞者の視線すら鳥たちはまとうでもなくその世界で動き続ける。
4点の作品それぞれが異なる空間の仕掛けを持っていて、特に『可也沢々七七五景』というタイトルの正方形の作品の複雑な空間は一度入ってしまったら出口などなさそうなエッシャー的な空間にも感じられ、鑑賞者の視線もエンドレスに動き続けることになる。管理、統率された世界のはずなのに、それぞれがこっそり自分の喜びを満たし、そこには笑いと悲哀が共存している。4つの世界を作りきった境野さんの技量と集中力に賛辞を送りたい。


岡田和枝賞
石井 萌「あなたが次に還るまで」

ミクストメディア
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作品テキスト
光の中で あなたと痛みを分け合おう
あなたが次に還るまで
やわらかな魂たちは
はぐれないように
手を握り合って眠るのだ

暗闇の中で あなたの熱を感じよう
呱々の声が響くまで

岡田和枝先生コメント
暗室の一番奥、鉄のパイプで組まれた鑑賞者側に開いた舞台背景のような骨組み、天井から床へ直に投影された映像は最小限の色彩で作られており、映像では透明の容器に張られた水に「人の顔の人形」が投入され水に溶け込ませるかのように人の手が水中で「その人形」を弄んでいる、後ろで流れているのはブクブクという水槽ポンプの音のみ。その映像の周りには作者の手跡が感じられる白い粘土で作られた「人の顔の人形」が点在し、それらを取り囲むかのように「その人形」がモチーフと思われる3枚の大きめな油彩画が3点パイプに貼り付けられている。
演者の居ない舞台装置のような、はたまた何かしらの儀式の一端のような。
この作品の手がかりはどこにあるのかとキャプションに目をやると、詩が一編添えられ、タイトルには「あなたが次に還るまで」とある。
実のところ、これらの多くのヒントを持ってしても、作者の解説なく作品からだけでは作者が思う作品の真意まで行きつくことは難しい。これほど分かりやすく、絵画、映像、オブジェに「人の顔の人形」というキービジュアルが幾度も登場しながら、それがなんであるのかは、作者が語る『あなた』であることしか確信できない。

作者が何を感じ、何を汲み取り、何を見せるのか。

今回の作品で、作者である石井さんには『これ』という起源となるイメージが確かにあり、具体的なテーマもある。
ただそれを作品として見せるにあたり、『これ』を「これ」として見て欲しいと焦点を合わせてゆくのではなく、あくまでも『これ=あなた』であるだろう雰囲気や、自身が汲み取ろうと模索した手触りを、感覚に忠実に、そして貪欲に形にすべく表現しながらも、確かな方向を示しつつ焦点を柔らかくぼかしているような印象を受けた。
この様な映像を用いた表現は、鑑賞者にセンチメンタルな感情を芽生えさせたり、思わぬきっかけで必要以上に物語が語られだしたり、ファインアートとしての立ち位置で映像を扱う場合、その塩梅がなかなか難しい表現手段だと思うのだが、その点石井さんの映像はまだ未成熟ではあるが、自身の感じ取ったものから何を汲み取り何を見せるか、ということが感覚的に丁度良い加減で提示されていると感じる。それは今年のはじめに作成された、自身の日常に密接する光景をただただ無作為に断続的に撮影されたドキュメント風な映像作品でも、映画でもなく、何かを提示せんとするドキュメント映像でもなく、撮影者である作者本人と、被写体である事物との距離感が付かず離れず、面白い映像作品となっており、今回と同様に焦点のぼかし方が丁度良い作品だと感じた。

まだまだ作品の所在や着地点は朧げではあるが、石井さんのこだわりと、貪欲さと、感覚を大事に今後も面白い作品を楽しみにしている。


加茂昂賞
田村 寧「おもかげ」

布、オイルパステル、水彩、刺繍糸
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作品コメント
長い間生き物の暮らしを守っていた砂利と、更地として新しく生み出されたコンクリートの地面。作られた時期や、背景、素材の成分すらまるっきり違うものだけれど動物や植物の命を守ってきたこと、守っていることに変わりはなく、人々の営みが見えなくなっても家の基礎が残っていて確かに誰かがここで生活していた面影が見えた。
今見ることができる痕跡を辿り過去を見ていくこと。 その視点で過去と今を繋ぎ止めたいと思った。
加茂昂先生コメント
『かくて、ルオーの全てが照らし出される。「芸術の真の機能とは、究極において、祈りの集中的行為のうちに己を失ってしかるのちに変容された己を再び見いだす」ということなのである。』ピエール・クルティヨン「ルオー」より

絵を描く意味とは何かを考えた時、いくつかあるであろう意味の一つとして、「己を失ってしかるのち変容された己を再び見いだす。」この、ピエールクルティヨンがジョルジョルオーを評したこの言葉はとても重要な意味の一つだと考えています。田村さんの今回の制作過程を見ながら、この言葉を思い出していました。祈りの集中的行為のうちに、とはいかなくても、何かしらの外的要因や内的要因により自分の価値観が揺らぐ様な、今までの自己を失うような体験をし、その事を理解するために、さらには乗り越えるために作品を作るしかない状況が生まれる。田村さんは3.11という大きな事象に出会ってしまい、それを少しでも理解するため、アーティストインレジデンスに応募し、現地に飛び込んだ。今回の一連の経験はきっと、これまでの自分自身を一度失いそして変容させる様な充実したものになっていたのではないかと感じました。
そしてもうひとつ重要なのは、作った作品を現地でも展示したということ。自身の作品を他者に見せるということに対して、ある種の責任を感じれるかどうか。その責任を引き受ける覚悟が作品にあるかどうかが、「自分自身を変容させてしまうような作品」という経験には必要不可欠だと思っています。大学にいると作品に責任を持つという事がなかなか実感しにくいと思いますが、社会の中に自分の作品を自身の責任において表明するという、大学を出れば当たり前の大前提も意識できていたのではないかと感じました。これらの事を今の時点で挑戦した行動力と度胸を評価します。何度でも何度でも自己を変容し続けて下さい。


川田龍賞
吉川 歩「身体の、分裂しているための条件のための」

ミクストメディア

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作品テキスト
左の動画は、それぞれのパフォーマンスがそれぞれの足を噛み、また噛まれています。
右の動画は、水の軌道を進む顔料インクの様子を撮影しています。
私たちが生まれたばかりの時、自分の足を力一杯に噛んで、痛くて泣いてしまうことによって、この世界と自分の境界がわかるそうです。これらの作品は、私が噛んで痛いのは本当に私の足だけなのか、というテーマから生まれました。

川田龍先生コメント

表現の偶然性や自然現象的側面を利用した映像と、人を繋げ、痛みを繋げ成立したパフォーマンスの映像を並列に見せることにより、自然現象と、この世界にとって普遍的で逃れることの出来ない社会的関係性に共通する面を、説得力を持たせ表現されていて素晴らしいと感じました。

絵画として(と認識しました)、映像で使用された作品が展示されていましたが、設置位置等も含め、展示における必然性としては若干の疑問が残りました。しかし、今回のパフォーマンス含め、その絵画の制作から発展した作品だとするならば、もう少し”絵画制作”として要求される要件と、パフォーマンスでの具体的な問題意識を重ねて掘り下げても良いのかもしれません。

今後の展開も期待しております。


川端薫賞
鈴木 明梨「ダギのタペストリー」

毛糸
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作品テキスト
私はこの世界の社会の理不尽を感じた。もし私が神だったらと考えた。私は私の世界を作った。その世界の歴史的遺物が私の作品である。「ダギのタペストリー」では、作られてから500年後に考古学者たちにより発見された。記事が書かれた現代ではこの作品が作られた真相を誰も知らない。推測するしかない。だが私だけは全てを知っている。「ダギ」と名付けられた子供の人骨は、生きていた頃の名を「ウィワ」という。未だに魂の領域を人面鳥と共にさまよっている。全ての真実を知るのは創造主である私だけだ。宇宙の全ては私の思うままである。この独裁者的な思想を唯一正当化できる場所が、私にとって作品の中だけだった。
川端薫先生コメント
古代文明の話を聞くとわくわくする。私以外にもそういう人は多いのではないだろうか。
カパイ・プユを築いた文明は、信仰、食文化、生贄の風習の面で、中南米あたりに栄えていた文明との類似点が多い。出土されたタペストリーは色褪せており、織られた当時はもっと鮮やかだったのだろうと思われる。
しかしこれは遠い未来の話。だとしたら今これを見ている私たちは一体いつ、どこにいるのか?それともこのタペストリーが時を越えて来たのか?そんなことを考えていると、足元の時空が少し歪む。
荒唐無稽な設定だが、こうすれば何をしたって整合性がとれる。というか、作れる。どんな文明があっても、どんな遺跡があっても構わない。だって未来の話なのだから。
以前、「僕は絵を描いてなかったら刑務所に入っていたかもしれない」と言っていた教授が女子美にいた。この人は一体何を言っているのだろうかと思ったが、今ならなんとなく分かる気がする。自分の制作においては自分がルールを決めていい。制作で好き放題できるからこそ現実世界で正気を保っていられるのだ。真意のほどは分からないが、私はそう解釈した。
これからも発掘調査を続けてほしい。次の未来の遺物が見つかるのを心待ちにしている。


後藤温子賞
西内 芙優希「存在の肯定 特異点Aを通して肯定される存在x」

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西内芙優希作品映像
作品テキスト
肯定は理解と同意によってなされる
人間は、自己という特異点から物事を認識し、
過去の経験から培われた思考に基づいて情報の整理を行い、
解釈を加え、理解をする
存在xは、肯定される過程において特異点による歪曲を免れない
存在xは肯定された後も存在xたりえるか

自己以外の存在の肯定は、自己の存在の肯定である
後藤温子先生コメント
宙に浮いている正体不明の白い物体(x)が、ただその場で延々と回り続ける。上方から降り注ぐ光の明滅によって、捉えどころのないその姿が一瞬、何者かに見える、ような気がする。より理解したいという人間の欲求をそそるような、何者でもなく、同時に何者でもあり得るような”器”の如きそれは、様々な解釈を引き出し、希望や恐怖を吸収する宇宙のようでもある。平面作品の”黒い絵具”は、まるで意志があるかのような激しさをもって、物体xを絵画面上での空間に押し留め、その切り取られた一面を明快に提示している。曼荼羅のような画面の配置は鑑賞者の視点を更に回転させ、まるで目眩を誘っているかのようである。
存在の肯定という、確かなようで、とても曖昧な感覚を、真正面から誠実に力強く模索し、作家の意図の範囲にとどまらない広い解釈と余韻を残して、鮮烈に表現していると感じた。


重田佑介賞
加藤 優衣「バースデーソング」

作品テキスト
来年の冬CDデビューする 架空の美大に入らなかった世界線の存在、ユイチャンのプレデビュー曲。
Happy Birthday to YuiChang
ユイチャンが編曲、編集、ボーカル、出演している。ハッピーバースデーはそのままの通り誕生日を意味するが、CDデビューを控えてる 世界一クールなアイドルユイチャン誕生の祝福の意味が込められている。曲調はマイナーコード(暗い曲調)で作られているが、15年前アイドル練習生だったユイチャンは突然所属事務所から契約を切られる。そして15年後の今別の事務所に見事アイドル練習生として入ることができ、この曲は過去からのリベンジを表している。

 

重田佑介先生コメント

Aグループの講評会の中でプレゼンテーションが最も沸いたのが加藤さんの作品だった。
ユーモラスなプレゼンテーション自体がパフォーマンスとなっており、それも含めて作品として受け取った。

以前から加藤さんは笑いのある作品を作りたいと話していたが、笑いは非常に難しくあまり推せなかった。
展示空間に笑いを求めてやってくる鑑賞者はあまりいないし、年齢の幅も広い。
笑いを成立させるためには、内容だけでなく、語り方、間や空気感、場作りと複雑で高度な技術が必要になる。
また笑いを目指すあまり「笑える/笑えない」という単純な構造に囚われてしまう恐れもあった。

さて今回の作品は、自分自身をモチーフにしたという意味である種の自画像だ。
自画像は、昔から多くの画家が様々に描いてきた基本的な題材だが
自身に向き合い、私は何者であるのかという問いは、現在も多くの表現者が通る普遍的な問いだ。
実際のところ「誰とも違う私だけの何か」や「私を構成する揺るぎない要素」のようなものが
都合よく見つかるなんてことはほとんどないのだけれど
私という存在について悩み葛藤する時間が、表現者を大きく成長させるのは今も昔も変わりない。

加藤さんは過去にも作品制作を通して、ストレートに自身に向き合っていたが
本作ではより踏み込んで戯画的に自身を操ることで、自身を乗り越えようとしているように見えた。
自身を晒し、捨て身と言ってもいいほどだったが、独特のユーモアで講評会の空気を支配した。
ユイチャンの雑な衣装が、シャワーヘッドのマイクが、机に置かれた自撮りのシールが、
Macbookから流れる不穏なバースデイソングが、笑いへの扉を次々と開いていった。

今回はプレゼンテーションがライブパフォーマンスとして上手く機能したが、
作品だけが展示された展示会場では十分に力を発揮していないかもしれない。
パフォーマンスで見せた空気感をインスタレーションや映像としてパッケージ化、作品化することが求められる。
ユーモアの見せ方には様々な技術がある。その裏に何を潜ませるのかということも重要だ。
アンテナを広く張り、多くを見て学び、実践し、加藤さんのユーモアを磨いていって欲しい。


冨安由真賞
Naomi DEIBEL「Two bodies, one with the head of the horse and the other with the head of a girl」

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作品コメント
Dear Horsegirl,
Here is your novel about tragic love
I feel like I prostituted myself for you, to become one of you
Doing for pretending being part
But honestly I‘m tired of it,
I want to plunge my hands into stone
You know that one girl who fell in love with a horse?
I mean, we all know it didn‘t end well…
It‘s the anger that can‘t flow.
The anger that always boils up and becomes visible
maybe in red steam.
I‘m afraid of you,
of your size,
but at the same time I appreciate your beauty
your shiny fur
your wild side
your innocence
There is a longing, a longing for standards. a devotion.
Domestication,
the utilization and attitude of women,
was a key moment in human history.
It brought the mobility necessary for human expansion.
I‘m sorry that you were domesticated so early and are still fighting for your independence
how annoying
how exhausting
And you no longer know how it goes,
how it feels
how you survive
because that has been your normal since you were born
I‘m not your horse
but i have this vision of you
in independence
I want to burn your CHAINS
your UNIFORM.
Here we go,
these beautiful two legs,
I‘ll give you more so you can run,
run faster and escape

I also want to give you a voice that you can communicate
I want to be close to you but also keep my distance. your beauty standards are way to high
Smart girls don´t fall right?
my most vital official act before i leave you in peace again:
i light spirals for you to scare away the evil spirits and
lick your wounds

親愛なる馬娘へ

これはある悲しい恋の物語です。 私はあなたのために、そしてあなたの一部になる為に、売春をす

る。

でも正直、もう疲れてしまった。

石に手を突っ込みたい。

馬に恋した女の子を知ってる?

幸せな結末にならなかったことはみんなが知ってる。

流れていかない怒りがあるんだ。

怒りはいつも沸騰し、赤い蒸気となって現れる。

私はあなたを恐れている、その大きさを恐れている、

でも私は同時にあなたの美しさ、輝く毛並 み、野性的な一面、無邪気さが好きだ。

スタンダード、そして身を捧げ、尽くすことへの憧れ。

女性を家畜化し、利用することが人類の歴史において重要な瞬間だった。

それこそが、人類の拡大に必要な流動性を引き起こした。

あなたが早くから家畜化され、いまだに自立のために戦っているのが本当に気の毒だ。

どれだけ腹立たしく

どれだけ疲れ果ててしまうことだろう。

何を感じ、どう生きていけばいいのか、

何がどうなっていくのか、

もうあなたにはわからない。

生まれてからずっと、それが普通だったのだから。

私はあなたの馬ではない。

しかし、自立したあなたのビジョンが、私にはみえる。

あなたの鎖、あなたのユニフォームを燃やしたい。

この美しい二本の足、私があなたにあげるから

もっと速く走れるように、逃げられるように。

そしてあなたに声をあげたい。

あなたがあなたを表現し、伝えられるように。

本当はあなたともっと近すぎたい、

距離を置かなければいけないのに。

あなたの思う美の基準は、あまりにも高すぎる。

私は知っている、賢い娘たちは落ちていかないと。

最後にあなたに捧げる、私にできる限りの儀式、

あなたのために渦巻きに火を灯し、悪霊を追い払おう、

そして私はあなたの傷を舐める。

翻訳:久松涼夏

冨安由真先生コメント

Naomi DEIBELさんはウィーンにある学術交流協定大学からの交換留学生ですが、3年生にして、既に表現のスタイルが確立しつつあり、洗練されている印象を受けました。馬をモチーフに、ジェンダーをテーマとして制作をしているそうです。馬は古来から人と共にあり、人を助ける家畜として身近な存在ですが、そのドメスティックな在り方が女性の社会的位置付けにリンクしていると彼女は語ります。
今回の作品は、キャンバスに転写した馬のドローイングと、馬の尻尾の付いた手作りの衣服、そして自作の詩とそれをAIによって読み上げさせたサウンドで構成されたインスタレーションでした。サウンドやファッション、テキストにドローイングと、意欲的に様々なメディアを横断させ、より新しい表現を模索する姿勢に惹かれました。
馬というモチーフは、ジョージ・スタッブスの絵画やエドワード・マイブリッジの写真などでも見られるように、美術史の中で多くのアーティストに好まれ使われてきました。また、ヨハネの黙示録の四騎士や日本ではおしら様信仰などでも見られるように、宗教や信仰といったことにも結びつく象徴的な存在だと言えます。そういった意味でも、馬というモチーフの選択に大きな魅力と可能性を感じました。
また、AIの音声合成を利用して、実在する女優の声を模した音声を使うということも、非常に興味深く感じます。女優(あるいは俳優)という職業は、アイコンとして私たちに消費されている存在だと言えますが、AIという技術分野においても消費される存在なのだと気付かされました。その消費される対象という暗示が、女性という性の搾取構造にも結び付きます。
衣服の使用は、今後のパフォーマンスへの発展の可能性も感じました。今後の展開を大いに期待しています。

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