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洋画専攻絵画コースの3年生「コンペティション」という授業のご紹介をします。
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2000年代以降は「コンペティション・コンペ」「公募展」隆盛期といえるくらい多くの企画と機会が生まれている。 いわゆる美術作品の競技会的なものからアーティスト・イン・レジデンスといった地域に関わるプロジェクトまで、その対象となる内容と求められ る表現は多岐に渡る。以前のような単純に比較され評価されるという競争原理は薄れ、むしろ如何に適正な理解をしていけるかという歩み寄りや情 報の提示といった段階が重要視されるようになってきている。後先はともかくとして結果的には多様な表現がコンペで認められ、柔軟な芸術表現の 実践と社会へ紹介される機会になるなど、アーティストとしての社会参画の契機としても機能しているのではないだろうか。
そして、その段階的な評価システムは、キャリア形成と奨学生・奨学金のような助成制度としても、美大生にとってより身近なものになった。 この授業では、その『コンペティション』自体について考えると共に、作品制作や表現を行うものとして、これまで評価される側として一方向から 捉えていた視点を反転して、評価する側としても作品と表現に関わってもらいたい。
そこで前期の授業からの継続としてエスキースや自身の制作を進めながら、より現実的に既存の「コンペティション・コンペ」「公募展」のフォーマット・書式を基にした展示計画を立ててもらいます。
また、最終的な課題提出作品(作品のサイズや使用メディアは自由です。特に今回は表現行為の多様化も考慮する。)を教員が審査し各教員賞(各教員の講評コメント付き)を発表します。各学生にも他の学生の課題提出作品に対して票を投じてもらいたいと思います。
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制作したものは教員から賞を与えられ、授業内及び女子美祭でアトリエに展示を行いました。
受賞作品と、講評文を紹介いたします。


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大森 悟賞
:福田 莉子
●本人テキスト●
会いにいくんだって言ってる人がいた
会いにいくんだなって
会えるよって
あの人は太陽になった
どこで会おう、どこで
つづきを求めて漂って
わー久しぶりって
ずっといた気はしてたんだけど
つぎは何に、どこに

星は死んだ人だよ、死んだ人は太陽になるんだよと、死者のつづきを想像すること

1303×1621
キャンバス、油彩
2022

福田莉子

●講評文●
いい絵だな。そう思ってしまった。
言葉を失い、ただ絵を見ていて、福田さんの「ことば」を追うことで「言葉」を思い出して自分に戻ってこられた。
その間、自分が太陽になっていたような気もして、体と心のどこかに温もりが微かに残っている。それは不思議と指先にも感じられるような気がした。
この3枚の絵画作品は、現在の時間と場所を超えて、花火のように膨張して見る人びとを光で包摂してしまうかのようだ。3つの世界が繋がる感覚も複雑に構成していることに気付かされる。循環するように太陽や星は3枚の絵を巡って行くが、それぞれの光は描かれた人を浮かび上がらせ、見るものの世界にもその光は仄かに届いているのかもしれない。 大きなストロークで作られた絵具のマチエールは、描かれた固有の形を貫き、描かれた全てのものが一つの世界で有り、現実的な存在としての肌触りを実感させてくれるような効果がある。画面の端まで工夫された描写も異世界の境界を往来するような視覚的な作用を生みだしている。
そして、会いたいという想いは太陽のような実感のある現実の世界と星のような遠い想像の世界のなかで、これからも漂い交流していくのだろう。
最後に、絵画という形態が形而上学的な思想からいかに脱却していくのか、そしてその困難さにも気付かされた作品でした。これはどこか俯瞰した問題提起なのですが。

 

 


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鴻崎 正武賞
:片口 南
●本人テキスト●
Triptych: My Altar
祭壇

片口 南
油彩/板
中央部:120×60; 両翼部;121×30cm
2022 年

失われた信仰と祈りへの憧憬、或いは自室に存在する桃源郷

太宰治の「人間失格」は、私に「何を信じればいいのか」と問いかけてきた。
私たちは昭和時代から、いや明治天皇の崩御からだろうか、ずっと信じるもの、生きる主軸を失ったまま
でいる。そして現代ではそれにすら気づいていない。宗教とはきな臭いものであり、自分とは関係ない。
神社に初詣に行くけど仏教の墓に入るし、結婚式は教会で挙げる。幸せですかと聞いてくる宗教勧誘のお
ばさんの目は笑っていないし、テレビの向こうでは宗教 2 世が泣いている。ここはそんな国だ。

私はどうしても、こんな雑多な社会で生きてゆけなかった。信じているものを迷いなく言いたい、社会が
抱える闇のような汚い思想を見たくない。生きようと思える主軸が欲しかったし、誰からも傷つけられず
誰も傷つけない優しい世界にいたかった。それはトマスモアの言うユートピアではない。人間の意志によ
る社会的な理想郷ではなく、陶淵明が唱える心の中に存在する実在しない麗かな桃源郷だった。私が唯一
安心できる場所は、今まで少しずつ集めたあらゆる美しいもので溢れた自分の部屋だ。きっとここがずっ
と自分にとっての桃源郷で、自分だけの信仰を育てていたのだと思う。
生物とは違う魂を持つ美しい物たち、光、香り、私のかみさま。信じるもの。
この世に実在する限り一切は壊れていくけど、私の信仰するものたちよ、どうかこの桃源郷では、黄金の
昼下がりの陽光に照らされて、いつまでも存在していてほしい、そんな願いを込めた。

なぜ静物画を描くのか、についての覚書

静物画はそのジャンルとして確立する前から、聖人のアトリビュートとして描かれ、その後も寓意やメタ
ファーとして描かれてきた。以前は私も物に意味を持たせようとしてきたが、今回は宗教画としての静物
をテーマに、寓意を持たせず、肖像画的に物を扱っている。17 世紀フランスのアカデミーにおいて、歴史
画や神話画が絵画ジャンルのヒエラルキーのトップであった。同時代の美術理論家アンドレ・フェリビア
ンの記述によると、その所以は人間が神の創造物であり、その人間を描くことで画家は神の模倣者になる
からだという。美しさという信仰の対象が具現化されたこの物たちを描くこと自体に聖性が宿るのかもし
れないと感じた。それはおよそ、仏像彫刻師が仏様を彫るのと似たような感情でもある。存在自体が尊い
ものを自分も模りたい、その輪郭をなぞりたいという宗教的精神性を探っている。

●講評文●
片口南さんの作品は、宗教画に多く見られるトリプティーク(三連祭壇画)の設に静物を描くという特殊な様式だ。静物画は1600年頃、フランドル地方、スペイン、イタリアで同時期に流行した。それは観音開きの仕掛けや複雑な淵溝、星のアクセントはあるものの、決して煌びやかとは言えず、静かで飾り過ぎない印象をもつ。静謐で時が止まったかの様な彼女の描く絵は、ある意味では聖母的な落ち着きであり、バロック期スペインの画家、スルバランの描く静物画にも通ずる。
聖人画ではなく、日常の愛するモノたちを描くこと。今、彼女の信じるものは此処にあるのだろう。そのストイックで本質主義な姿勢からは、西洋画に対する憧れを介しながら、実は日本的な宗教観も垣間見えてくる。整然と並べられた蝋燭や陶器、自然物からは、日本の仏壇や神棚も彷彿させるし、彼女が集めている品々は仏教儀式に使用する法具にも見える。神仏を同じ空間に飾るのは日本だけであり、神も仏も自然も人間も同じ世界に共生するというアニミズム的思考、万物に魂が宿る様が感じ取れる。
中国の経済成長等のグローバル化により、日本が明治以降に西洋化されていった様な、かつての西洋に対極する東洋という考え方自体が、現代は大きく変化してきている。そして、これほど宗教が弱体化し、信じるものに翻弄されている時代は他に無いだろう。
コロナ禍を経てインバウンド・アートも、これからの社会に合った次なる変化を求めている。チマブーエの「荘厳の聖母」は、ドゥッチョ、ジョットがそのフォーマットを引き継いでいるように、宗教美術は、常に時代と共に更新されていくものである。
彼女の徹底した展示計画書や作品の作り込みから、人々に何かを感じとってもらいたいという、「美を信じる事」を諦めない強い想いを感じた。

 


 

 

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加茂 昂賞

:本田 萌

●講評文●
AIが絵を描く。この事をどう捉えるか。
一説によると2045年にはシンギュラリティ(技術的特異点)が起こり、AIと人間の知能が並ぶと言われています。その時、改めて人間の存在の意味が問われ、同時に人間が絵を描くことの意味も問われるのだと思います。AIは今も人間の絵画を真似て、日進月歩で絵を描くことを学習してます。私はそのことに多少なりとも危機感を感じでいたのですが、AIの絵を真似して描いてしまうという、その行為の軽やかさに意表を突かれました。現在、AIと協同作業のような形で制作をする作家も少なからずいますが、AIが人間を真似るように、人間もAIから学ぶ今回の本田さんの行為にもAIと人間が友好的な関係を築くための手段や思考になりえるのではないか?という希望のようなものを微かに感じました。AIに危機感を抱くのではなく、AIとの共存をポジティブに考える、そんな展開を勝手ながら期待してしまいました。


 

ohhashi0川田 龍賞

:大橋侑奈

●本人テキスト●
今、あなたの中で
大橋侑奈
プラスチック、スチレンボード、ガラス、蝋、クエン酸、重曹、水/2022

記憶は時間によって薄れ、欠け、変化していく。
忘れたくない記憶も、忘れたい記憶も、気付かぬうちに姿を変えていく。
記憶は思い出へと姿を変えて私の中に存在する。
なんでもなかった瞬間が思い出へと姿を変えた時
それは私の中で特別で、たまらなく愛おしいものになっている。

水が落ちて溶かしていく。
溶かされていく記憶は徐々に形が崩れていく。
記憶の中から思い出が生まれる。

思い出は粘土で作ったものをシリコンで型をとり、蝋を流し込んだ。
蝋で作られたものは、粘土で作ったものと少し姿が変わっていた。
蝋で作ったものは手足が欠けていたから、付け足した。
図らずも、思い出みたいで面白いと思った。
思い出も継ぎはぎで、脚色される。

今この瞬間も、記憶は思い出へと姿を変えている。
———————————————————
時間、記憶、思い出という目には見えないものを視覚的に表現し、
現在進行形で変化していく作品と、今も気付かないうちに変化している記憶を
リンクさせた作品。

●講評文●
今までに拝見させて頂いた作品も、自らの経験に誠実に向き合いながら制作をしている印象でした。今作では当事者としての思い出や記憶だけでなく、全てのものが形を変えてもそこに存在し続けるというような、個人的な範囲に止まらない普遍性も示すような広がりがありました。作品のサイズも仕掛けも、けして大がかりではありませんが、非常に味わい深い作品です。日常的に使用される身近な素材を活用しているのも興味深いですね。今後の展開を期待しています。


 

 

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川端 薫賞
:野々宮一葉

●本人テキスト●
回帰
使用素材:レジン、マイクロプラスチック
辺年、マイクロプラスチックによる海洋汚染が深刻化してい
る。影響は海洋生物の生態系だけでなく、船舶運行・観光・漁
業・沿岸居住環境など、様々なものに広がっている。
この作品は、実際に鵠沼海岸で3 時間かけて拾ったマイクロプ
ラスチックを使用し、マイクロプラスチックを食べた魚を私達
ヒトが食べることで、ばら撒くいた害が回帰することを表現して
いる。
野々宮ー葉

●講評文●
一見すると綺麗なオブジェである。様々なプラスチックのパーツで作られた、モザイクの鮭。
その実、この鮭は海洋環境におけるマイクロプラスチックの問題を提起している。
食卓に出された魚が生前にマイクロプラスチックを飲み込んでいた可能性は大いにある。我々にしてみれば小さな異物混入だが、魚からすれば災害である。人知れず苦しみ死んでいく魚も数多くいるのだろう。海の恵みを擦り減らしている事は確かだ。
因果応報という言葉が浮かぶ。講評でも言及されたが、鮭は母川回帰する魚である。「帰ってくる」のである。この作品はそれを強調しつつ明快に示している。環境問題を知ってもらう良いきっかけになるだろう。

 


 

 

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後藤 温子賞
:石踊彩恵

●本人テキスト●
知恵の輪ほどけんくてぶつぶつ
石踊彩恵
ミクストメディア 1500 x 1000mm、1000x 727rrun
ポールペン、修正ペン、紙粘土、木炭
今の自分を"大人"だと仮定すると、私たちは知らない"から"知る"の方が
圧倒的に広がった。
ただ、知ったことによって常に何かに気を使ったり意識を取られていく
ような感覚があった。
"知る"から"知らない"にはもう戻ることができず、また"知らなくてよか
ったこと"も含んでぐちゃぐちゃになって絡まったものを知恵の輪になぞ
らえる。幼い私には申し訳ないがもう元に戻すことは出来ない。その知
恵の輪について幼い私と今の自分が独り言を言っているという想定で字
幕をつけている。独り言が2人の会話のように、噛み合うようで噛み合
わない。
絵にただずむ今の私、幼い私の前には、それぞれの独り言と知恵の輪の
様なものが設置されている。それは今の自分には更に絡まってみえ、絵
の瞳に反射して映る。幼い私にはまだそれが見えていない。

●講評文●
失くしてしまったもの/感覚に対する郷愁、憧憬、諦めのような、しかしまたその真逆のような、期待や希望、許しのような。作品の前に佇み、しばらく耳を傾けたくなる、静かで強い引力を持つ空間を築いていると感じた。
【知る】ことによってさらに増えた【知らない】は、幼い頃、大人になれば解けると思っていた知恵の輪が、むしろ更に複雑に絡まり合い、作品の中に溢れ出ているように見える。
壁掛けの”絵画”の中に配された”文字”は、線的な描画や布(支持体)の捻れ、木炭や紙粘土の粒子と奇妙に反響し、台座の上に寝かされた”絵画”の中では”文字”がより遊戯的に展開しながら、その上に置かれた立体の”知恵の輪”と空間を跨ぐように絡まり合っている。生成り地に白黒で描かれた像は、今にもほどけるように曖昧で、思い出や無力感、葛藤、混乱などが見て取れる。
絵画、文字、立体というそれぞれ独立し得る媒体が、物理的、視覚的、意味的に一つの作品の中で軽やかに融合し、対峙するこちら(鑑賞者)の感覚までも作品と溶け合うような、不思議な感覚を起こさせる。
作者自身がとても自然に材料や媒体の垣根を越え、往来することのできる柔軟さを持って表現しているように思う。


 

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関口 雅文賞
:森根 暖

●本人テキスト●
『plants』

森根 暖

私は小さい頃から緑に囲まれて育ってきました。
だからといって、植物が特別な存在というわけではありません。
しかし、無くてはならない存在であるのは、本当です。

本作品は、現代社会を生きる人間界と対峙するような、人為が
加わる前、概念が出来上がる前の自然界を作品として視覚化さ
せる事で、暖かい空間を作ろうと制作しました。

1818×2273mm
油彩、キャンバス

●講評文●
森根さんの作品はいつも魅力的な輝きを放っている。でも残念ながら彼女は自らの輝きを見る事が出来ない。
思い返せば、森根さんはいつも落ち込んでいた。自分に自信を持てずに否定的な思いが頭の中を巡るのだという。ふと周りを見渡せば、自分には無い魅力を持った友達が良い作品を作っている。森根さんにとって、友達や周りはいつもキラキラ輝いて見えるのだろう。
恐らくこれに共感できる人は多いのではないかと思う。

先生や友達から作品を褒められても、何故か自分だけその良さが分からず、ドンドン落ち込んでいく。苦しくて、切なくて、逃げ出したいのにどこにも逃げられない、行き場のない感情の澱の様なものが深くふかく心の底に沈んでいく。
得体の知れない大きな作品も、残骸の様に散らばった小さな作品達も、もしかしたら苦しみ喘いだ結果なのかもしれない。
でもそこには嘘偽りのない、自分自身と向き合った森根さんの想いが詰まっている。それこそが美しいと僕は感じるのだ。
形、色のバランス、タッチ、構図、モチーフ、テーマ…そんなものを遥かに超越した美しさ。これまで絵(作品づくり)に大切だと考えてきたものが無に等しくなる位の切実さ。そんな得体の知れないものが存在する。これこそが美術の世界の醍醐味だと思う。
背伸びをしたり、格好をつけたりではなく、ありのままの自分を曝け出せば良い。楽しい時や嬉しい時はそれを素直に出せば良い。今はもがき苦しみ、苦悩に喘ぐ中から真の輝きが放たれている。苦しい時にも輝けるなら、楽しい時にはもっと輝けるかも知れない。自ら輝ける人は、きっと周囲を明るく照らすだろう。
この輝きにいつか気付ける日が訪れる事を心から願っている。

 


 

 

冨安 由真賞・学生選出賞
:山本 瑞季

●本人テキスト●
←普通→
山本瑞季
2022年
キャンバス、パネル、布、枝、油彩
「普通」という概念についての考察
私個人の「普通」について考えた断片のような作品を制作した。
「普通」の正体は掴むことの出来ないものだと思う。大変に主観的な感覚であり、個人の中で
漂っている不確実なものである。
自身の「普通」、「当たり前」の思い込みが砕けると、新たな思い込みが生まれる。
「普通」に、「人並み」になりたいという、自身が「普通」から外れてしまったと感じる場合の憧れ。
「普通」という言葉は、一見フラットで味気ないように感じられるが、その裏で個人や大多数が複雑
に入り組んでいる。
安心する要素にも不安や失望の要素にもなり得る不安定な思考の断片のようなものを「普通」という
よく分からない大きな袋に詰めている。
「普通」という変な形でごちゃごちゃしたものを持ち歩いている。

●講評文●
山本瑞季さんの作品の魅力は、絵のタッチや色彩感覚もさる事ながら、その素材の扱いにあると感じます。高い完成度の作品を毎回コンスタントに仕上げてきますが、自身の過去の作品に囚われることなく、毎回貪欲に新しい表現に挑戦する姿勢が大変素晴らしいと思います。いつも黙々と制作をされていますが、自分自身で都度課題を見つけ、切り開く力は作家には重要なスキルであり、頼もしさを感じます。今回テーマにした「普通」という言葉の中にも、山本さんという個人の視点が感じられ、作品たちに真摯に向き合う姿勢と上手く合っていたように感じます。詩のような、台詞のような言葉が一緒に展示されていることも興味深く拝見しました。

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